通常総会後の第2部として、島内で活躍している著名人を招いての特別講演行が行われる。
講演は、『人生の途上にて・医学と文学のはざま』と題して、阿那賀・伊加利診療所所長 大鐘稔彦先生より、地域医療のあり方や癌患者への告知とかライ患者に対する理解、虫垂炎の手術方法など、これまでの医療に対する取組みをスライドと理解しやすい表現で解説いただきました。この講演会を新聞などで知った市民の方々も含め、開場が満杯になる盛況な講演会でした。
〝若気の至り〟なる言い草は至言である。大鐘先生はこれをやらかした。
医学部の専門課程に進んだ満20歳の年の暮れ、両親に内緒で、休学届を出して新聞社が懸賞金を付けた新聞小説を募集していた。締め切りが迫っていたので講義に出ていては間に合わない。懸賞金目当てではなく、入選を果たし、一気に文壇に躍り出ようとの魂胆だった。〝天才〟に憧れていた。それには24歳までに世に出なければならないと思い詰めた。「罪と罰」で私を打ちのめしたドストエフスキーは、24歳の時に書いた「貧しき人々」で作家デビューを果たした。ドイツの大文豪ゲーテが「若きウォルテの悩み」で華々しく世に登場したのも24歳だった。日本でも、天才と言われた樋口一葉、芥川龍之介、新しいところでは大江健三郎、石原慎太郎などは皆20歳そこそこで世に出ているではないか。下宿に閉じこもり、終日原稿用紙に向かった。締め切りもギリギリ、一千枚の長篇を書き上げ、自信満々で送った。当選すればすぐに新しいものを書くよう求められるだろうと、準備万端し、次の作品を書き出していた。だが夢想の日々は半年と続かなく、早々に落選の報がもたらされた。一次予選さえ通過しなかったのだ。若かりし頃の文学や医療の現場での事など思い出を語っていただいた。
今回の講演は、淡路文化協会会員で現在、大阪・法善寺横丁で「上方浮世絵館」の館長 高野征子さんの講演が行われた。
高野さんは洲本市中川原町の出身、2歳の時にお父さんを亡くし、故郷を離れることになったが、いつも淡路島での生活が懐かしく思い出されるという。幼い頃に淡路人形浄瑠璃を見に行き、「お里沢市」や「太十」など、言葉は難解であったが、子供なりにその内容を体感していたように思う。大阪に出てからも、歌舞伎や文楽の音楽にどこか懐かしさを覚えるのもこの体験によるものだという。自分の時間が持てるようになった頃、上方浮世絵と呼ばれる役者絵に出会い気が付けばすっかり夢中になっていた。
上方浮世絵とは、江戸時代後期の千両役者たちを描いたもので、当時の大阪道頓堀で繰り広げられた名舞台を目の当たりにすることができる浮世絵である。幼いころの人形所瑠璃の絵を褒めてもらった思い出が、上方浮世絵の収集へと拍車をかけたのかも知れない。収集した浮世絵の展示する館を造りたいと決心したのは、働いた土地が上方浮世絵にかかわる場所でもあり法善寺門前は、歌舞伎役者や贔屓の町衆が歩いてきた足跡の残る場所であってため。
上方浮世絵には現代の人々が忘れかけている義理人情といった、当時の人々の魂が込められており、日本人の心を思い起こさせる場所を作らなければという一心で「上方浮世絵館」造った。今も浮世絵に対する思いは変らなく、現代でも浮世絵制作に取り組んでいる彫り師や摺り師の方には、胸が熱くなる。展示する版木や道具だけでなく、来館の方に浮世絵の魅力を楽しんで理解してもらうため「制作体験コース」も行っている。浮世絵に対し、真摯に探求している人々のためにも、継続して行かなくてはならない。
今回の、
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講演は、『伝統芸能と共に生きる―人づくり・まちづくり―』と題して、淡路素義審査会 会長の岸上 敏之氏の講演が行われた。
戦後混沌として娯楽の少ない中に、復員者や青年層が心のゆとりを求め余暇利用として浄瑠璃を習い始める者が増えてきた。昭和26年に「淡路素義審査会」が組織され、「淡路素義青年審査競演会」が開催されている。高校卒業後、上町青年団に入り春祭りに向けてのだんじり唄や郷土芸能にも取組んでいた。古老に進められ、昭和51年、豊澤町太郎師の門を叩くこととなった。上町のだんじり唄のお師匠さんは、上町在住のだんじり唄精通者で「振り」、「語りこみ」、「ことば」をそれぞれに担当を決め指導している。唄は、数年で完成するものでなく現役を退く頃にやっと上手くなる状態である。時には、鳴らしの折に酒を酌み交わし、唄談義をしながら社会生活の話に花が咲き世代を超えての交流が図られ、厳しい練習の中にもチームワークが確立されている。
平成20年に兵庫・徳島両県に共通する地域課題を協議し、共通の伝統芸能である「阿波人形浄瑠璃」と「淡路人形浄瑠璃」の交流・連携により、「関西元気文化圏構想」を推進。具体的な取り組みとして、「全国人形芝居サミット&フェスティバル」や『淡路と阿波 人形浄瑠璃の伝統を探る』のトークショー、さらに西宮~淡路~徳島を「人形浄瑠璃街道」と銘打って、そのフェスティバルが開催されるなど情報発信がスタート。淡路島には、多くの祭りや伝統芸能があり各地域で、各々の取り組みが人づくり・まちづくりに繫がると信じている。青年団時代より地元の祭礼団でのだんじり唄や素人義太夫として活躍すると共に愛好会に指導してきました。これらの地域とのかかわりや郷土芸能の発展に努めてきた。 講演では、伝統文化を通じての体験談の披露や〝さわり〟のところを実際に語り、参加者に感動を与えた。
太鼓の音に、心うきうきした少年時代の思い出がいつまでも皆んなの心に残っております。島には約360社以上の神社があり、春・秋の祭礼に全島で約350台以上参加している。
これまで淡路島各地のだんじり祭りを見て来た経験からホームページを立上げると共に、講演で「淡路島のだんじり祭り、その魅力とは・・・。」と題して、淡路島各地のだんじり祭りの魅力を〔勇姿・刺繍(水引き)・彫刻(高欄、狭間)・金綱〕などの美術工芸品の他、勇壮な練りや、情緒あふれる『だんじり唄』等々を紹介してきた。
イベントを通じて島民の連帯感を深め、淡路島独特のだんじり唄やだんじり祭りのルーツなどを資料を通じて説明すると共に、淡路島内各地でのだんじり祭りの楽しみや盛り上がりの違いなどが多種多様で、それらををスライドや映像で紹介して、だんじり祭りの魅力や素晴らしさが熱く語られた。
講演は、『引札にみる昔の商店と商品』と題して、江戸時代から明治にかけての木版印刷や活版印刷など商店や商品の広告チラシやポスターをスライド映写で資料を紹介し、絵柄の時代性とともに人と店の地域の盛衰について熱く語られた。
淡路各地には老舗と呼ばれ歴史のある古い店舗が多い。今もなお商売繁盛な店舗がある一方後継者不足や経営状態に行き詰って廃業した店舗もある。
今では色んな手段で店のPRが出来ますが、当時は印刷したチラシ・ポスターなどの印刷物だけが唯一の宣伝方法でしかなかった。
田村氏はこれらの『引き札』と呼ばれるポスターなどの印刷物を数多く収集している。
主に洲本の商店街の物が多いが、広く 全島からの『引き札』が集められており、各商店では競って店舗名や商品名を入れた『引き札』を木版印刷や活版印刷で作り、それ専門のデザイナーが居たとか(?)素晴らしく、色鮮やかに目を引くものが多く、懐かしい名前の店舗や商品も登場した。
講演は、「淡路人形浄瑠璃のアイデンティティ」と題して、500年の伝統を誇る淡路人形浄瑠璃の魅力や現状をユーモアを交えて紹介いただきました。
「淡路人形と文楽は同じか」とか「どう違うのか」などとよく聞かれる。たとえて言えば、ナシとリンゴほども違わないが、同じナシでも「二十世紀梨」と「長十郎梨」ほどの違いがある。二十世紀はきめが細やかで甘さと酸っぱさがほどよく調和した味、長十郎はきめが粗く抜群の甘さのワイルドさが持ち味といえる。もちろん淡路人形は長十郎の方であり、あるいは新高梨かもしれない。淡路人形が五百年先、千年先まで命脈を保つには、必要な要素がいくつかある。行政の理解と援助、地域住民の理解と支持、島内外への啓発と観光振興、後継者の育成、しっかりした淡路人形浄瑠璃のアイデンティティを持つことなどである。過去の活動において、神事性と娯楽性を併せ持ったこと、地方の人々に貴重な娯楽を提供したこと、阿波藩主の手厚い庇護を受けたこと、巡業の結果各地に人形操りが根付いたことは特性ではあるが、これらは淡路人形存続の決め手にはなり得ない。大切なのは、長年の興行で作り上げ、身につけた淡路人形ならではの演出の工夫や特性である。この淡路らしさを捨てずに追求していくことが、淡路人形浄瑠璃のアイデンティティであり存続につながるのである。
標準700人が入る野掛け小屋で公演したため、人形の大型化が進み、素朴で力強さが特色となった。時代物を得意とし、豪華な衣裳を着せ、衣裳山という演出も行った。特殊首をいろいろ考案し、七化け、早変わり、人形ならではの大立ち回り、背景のフスマを次々変化させて千畳敷が広がる道具返しなども見せた。淡路独特の外題というのがある。淡路座で創作されたもの、中央で作られたものに淡路座で改作や補作されたもの、中央で作られたが初演後上演されなくなり、淡路座が上演を受け継いできたものなどである。歌舞伎や文楽が旧態を守って男の世界であるのに対し、太夫座はもちろん昭和期になると女性の人形遣いも出現した。90年も前から男女共同参画ができているのだ。
今回の特別講演は、木村幸一氏(淡路ふるさと塾塾頭、日本吹き戻し保存会代表)を招いての講演「震災復興から学んだこと」と題して、東日本大震災でのボランティア活動から学んだ教訓をお話いただきました。
木村氏は、「阪神・淡路大震災」時の経験を活かし、平成23年3月11日に発生した東日本大震災の発生直後から救済物資を集め、夜を徹して東北に向かった。緊急に必要なものを届けた後は、被災地の経済復興を後押しするため継続して支援を続けている。
「阪神・淡路大震災」当時、淡路には義援金や救援物資が全国から寄せられたが、感謝の気持ちながらも救援物資の中には、使わない物、使えない物がたくさんあることに胸を痛め、せっかくの善意を生かすことができない一方で必要としている人の手元に必要な物が届き難いことに歯がゆさを感じていた。また、大量の救援物資があり、被災者はモノを現地で購入する必要が無いことから、被災地の経済が衰退していく現状を目の当たりにしてきた。この時の経験が、後の東日本大震災での救援活動で活かされることになる。
「とりあえず必要なモノを届けなくてはならない」という思いに駆られ、震災発生の6日後に地域活動を共にしていた仲間や行政の協力で「復興支援ネットワーク淡路島」を立ち上げ、阪神・淡路大震災時の経験から、被災地の情報を聞き必要とした救援物資を集めて10tトラックに伴走して高速道路を走り東北へ向かった。
被災地に支援物資を届けた際、全国から寄せられた衣類などが使われないまま保存されていることを耳にした。帰路には、活用されないまま保管している救援物資を積み込み、それらを売り義援金にしたいと相談。町は、被災者のために寄せられたものをリサイクルすることに戸惑いがあったが、 余った救援物資の有効活用に踏み切った。
復興支援ネットワークのメンバーは、ショッピングセンターシーパや洲本市商店街などの協力を得て支援バザーを開き売上を義援金に変えた。そして、被災地で必要とされているものを現地で調達する。木村さんは、「復興支援とは自立できる為の経済を応援することが一番大切」と訴える。
ネットワークが仮設住宅に住む人たちの交流の機会をつくり、七ヶ浜町で「餅つき大会」を開催。準備から地元の人たちに参加してもらい、食材や箸、皿などの消耗品は全て現地の店で買うようにして婦人会の人たちや子どもたちと餅つき体験を楽しんだ。その後も、毎年の恒例行事として続けていたが、仮設住宅が解消すると一つの区切りを迎えることになった。
ネットワークを立ち上げた当初、メンバーは30人ほどだったが、口コミで淡路島各地から100人を超える人が集まり、運送会社の無償提供や洲本高校野球部員が積み込み作業のボランティアしてくれるなど、多くの人の気持ちで物資が届けられた。木村さんは、無理と無駄のないように、被災者のために気持ちを込めて行動することを心がけ、支援活動を続けた。「過去の経験を学びとして、被災地の経済活性化に繋げる息の長い支援を続けるとともに、経験を検証し語り継ぐことが減災につながる」と語る。
今回の、
特別講演会として、武田信一氏(淡路地方史研究会会長)を招いて「没後1250年の淳仁天皇と淡路島」と題して、淡路廃帝淳仁天皇について講演をいただきました。
(只今、編集中ですので暫くお待ちください<m(__)m>)
平成28年6月4日、淡路文化協会創設40周年記念事業として、会場を洲本市文化体育館「しばえもん座」に移して行われた。
文化賞の表彰のあと、総会・記念式典が行われ、その後の第3部として俳優で画家、歌手、書家、ヨガ実践家、プロボクサーなどの多彩な顔を持つ片岡鶴太郎氏を招いての「流れのままに」と題しての特別講演が行われた。
鶴太郎氏はタモリに影響を受けて挿絵を描くことを始めた。コメディアンとしての仕事から距離を置くにつれ、1989年にドラマ『志功の青春記 おらあゴッホだ』で若き頃の棟方志功を演じたことをきっかけに、水墨画を描くことや陶芸など美術方面へ傾倒していく。岡本太郎とバラエティ番組『鶴太郎のテレもんじゃ』で共演したことから知り合い、岡本によってその才能を評価され自信を持ったとされる。
鶴太郎氏は、普段は右利きだが、絵を描くときのみ左利きだと言う。画家としては、1995年に初の絵画展「とんぼのように」を東京で開催。以降、毎年新しい作品での個展を開催している。2001年、初の海外個展をフランス・パリにて開催し、好評を博す。目下、幅広いキャラクターを演じられる役者として活躍し、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞など数多くの賞を受賞。
また、インド政府公認プロフェッショナルヨガ検定に合格し、インド政府より、ヨガマスター、ヨガインストラクターの称号を授与され、第1回ヨガ親善大使にも任命されるなど、ヨガへの取組と画家活動の光景を紹介しながら、時折ユーモアを交えての講演で、会場一杯の聴衆をわかせた。当日は大盛況で立見席が出る状態でした。
特別講演会として、池添醉心(忠義)氏(淡路雅交会代表・淡路文化協会常任理事)を招いて「雑俳の歴史とそのおもしろさ」と題して雑俳についての解説を戴きながら楽しい講演が行われた。
雑俳は庶民文芸とか土文芸と呼ばれ楽しまれ、江戸時代は全国的に盛んであった。
組連(吟社)で句会が開巻されていた他、雑俳(前句付)が興行的に行われていた。一回の興行で一万句も集まることを願って「万句合わせ」と云われていた。興行主が句題を作り広告を出して組連に配って句を募集する。その入花料は一句が十四文~十六文ぐらいだったといわれている。集まった句を集計し点者(選者)に依頼し選句をして秀句には豪華な景品(米三俵など)をつける。興行主は入花料から取次所の手数料、印刷物の費用、賞品代、点者への点料を引いたものが、収益になる。
万句合わせの点者は俳諧師等がやっていたが人気のある点者には多くの句が集まった。元禄時代は前句付専門の点者は少なく、多くの俳諧師がこれに当たっており点料が生活の糧になった。特に上方では一流の俳人も手掛け、有名な井原西鶴も西鶴点として名を連ねていた。また、蕉門十哲の一、宝井其角も点者をしていた。
また、其角の流れを汲む江戸座の俳人慶紀逸も点者で、それを編集した俳諧高点付句集「武玉川」がある。これは好評であったが紀逸が亡くなったことにより十八篇で終わった。この武玉川や柳多留は選をした句の中の秀吟を編集したものである。この万句合わせの流れを汲んでいるのが、土文芸と云われている淡路雑俳である。
特別講演会として、高田一民氏(㈱五斗長営農企画グループ)を招いて、演題:「美しい郷 五斗長、集落活性化の取り組みと難病に挑む」と題して彼自身の難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)との闘病生活や地域集落活性化の取り組みを語っていただき、一同感銘に服した。
災害体験では、関西に平成16年8月~9月にかけて台風11・16・21・23号と立て続けに襲来した。特にマリアナ諸島近海で発生した23号が大型で強い勢力で沖縄本島から奄美諸島沿いに進み、大型で強い勢力を保ったまま高知県土佐清水市付近に上陸した後、高知県室戸市付近に再上陸した。その後、淡路島を通過して大阪府南部に再上陸してから近畿地方、東海地方に大きな被害をもたらした。
淡路地域では、午前中から降り始めた雨が激しく3時間で約150㎜の雨が降り、洲本測候所での雨量は観測史上最大となり、大変大きな被害が発生した。五斗長(ごっさ)集落ではこの台風により集落全体でため池が8か所決壊し農地が160か所崩壊した。さらに、道路、水路の崩壊もあり、過去に経験したことのない被害状況に住民は不安な状態のなか3日後に青壮年会役員が集まり、数か所のため池を統合して農地は区画整理をして再び災害の起きない「安心して安全に暮らせるまち」にしようと決議。農地の区画整備事業は、通常3年~5年程度の歳月をかけて、事業実施となる。しかし、五斗長地区では、平成10年に青壮年会が結成され、集落の将来のことが話し合われた。平成16年に「まちづくりは人づくり」と題して、日本ふるさと塾主宰萩原茂裕先生の講演会を聞き、研修会やイベントで“まちづくり”が行われていた。このことが下地となって、ため池等整備事業、ほ場整備事業、災害復旧事業などの補助を得て実施することとなった。
ほ場整備事業では、ハード事業と並行して、組織作りも行い平成19年、「五斗長営農組合」を設立し組合による農業経営がスタートした。平成21年に「株式会社五斗長営農」が設立された。甚大な被害を受けた五斗長地区がため池の決壊により米が作れなくなった田んぼにひまわりの種を蒔き「ごっさひまわりまつり」を開催。青壮年会、老人会、女性部など各種団体の手作りのまつりとなり、満開のひまわりのようにみんな前向きに進むことを心に誓いました。中山間地域では農業の個別経営には限界があり、集落の農地は集落で守っていかなければなりません。災害を契機として未来に向けた新たなまちづくりのはじまりです。
特別講演会とし、講師に伊藤宏幸 氏(淡路市教育委員会 文化財活用等担当部長)を招いて「淡路島の古代史と日本遺産」と題して講演いただきました。
各地で発掘されてきた多くの銅鐸や鉄器の説明があり、淡路島が弥生時代以前の昔からいかに重要視されていた状況かが理解出来ました。
5月30日に予定しておりました総会が、新型コロナウィルス感染拡大に伴い中止となりました。
5月22日に予定しておりました総会が、新型コロナウィルス感染拡大に伴い中止となりました。